学生のころ、わたしは多くの患者の不幸や苦しみに直面する看護師が、どうやって心を保っているのかいつも不思議だった
私が新人の看護師だったころ
ある先輩看護師はニコニコし、とてもハキハキと働いているのにもかかわらず
新人の私から見ても疲れているように見えた
体調を崩し大きく人生が変わってしまった先輩や同僚も多く見てきた
「道徳的」で「使命感や責任感」の強い人ほど
その傾向があるように思った
一方で、どうしても感情移入できない患者に出逢うと
「自分が看護師として適正を欠いている」ように感じることがあった
また、たまたまなのだろうが、どこか強く共感できてしまう患者もいて
そうした患者さんがお亡くなりになったとき、とても悲しかった
でも、そういう時でさえも、平等に患者に思い入れできない私は
医療職のプロフェッショナルとして何かが欠けているように感じていた
そんなときに、哲学者の中島義道さんという方が書いた『「がんばり過ぎない」ための感情管理』という1000字余りの雑誌の記事にであった(看護、2004、56(8)p20-21)
職業人として「感ずべきこと」の表出である「表層演技(surface acting)」と、その人自身の「ほんとうの」感情表出である「深層演技(deep acting)」を自覚し、管理できるかが重要であるという。
例えば、臨終の場で、泣き崩れる家族をみても「同じように悲痛を感じない(深層演技)」のは、当たり前である。あなたの家族ではないのだから。
だからと言って、間際の患者を前に妙に明るくニコニコとしているのも、家族の感情に配慮していない。医療者が家族に配慮し平静にみせることは「表層演技」であり、プロフェッショナルとして必要な配慮である。
加えて、「心から悲しんでいるようにみせる」ことは、「うまく」演技しすぎである。
人間、特に痛みを抱えた患者や家族は敏感である。
どんなにうまく演技しようとも、演技の匂いが残るものである。
一方で、大学では、感情に共感することを、過度に、それこそ口を酸っぱくして先生方は指導される。大学生のころの私は、『患者に共感しなさいと先生言うけれど、私の感情は無視し、共感することを強要する』とえらそうに考えていた。
大学で、共感ではなく、適切な表層演技を身につけなさいと教えられていれば、それは素直に受け止められたかもしれない。しかも、必ずしも感情(深層演技)を伴わなくていいのであれば、技術として磨くことができる。
また、医療者の多くは、身近な人の不幸を経験し、その経験をもとに医療者を志す方も多い。要するに、もともと「道徳的」で「使命感や責任感」が強い人が多いと思う。
そうした使命感や責任感の強い人が、感情労働を求められるとすれば、どうなるのだろうか。きっと使命感や責任感は、過度になり、自分自身を傷つけるようになる。
中島義道の『「がんばり過ぎない」ための感情管理』という文章を読み、私は次のように決意した
『わたしが新人のころ出会った先輩のように
多くの看護師は「道徳的」で「使命感や責任感」の強い人が相対的に多い職業である
だからこそ、それが過剰にならぬよう
過剰になり、自分で自分を傷つけぬよう
周りの医療者や医療を志す学生に「感情労働」や「必要以上の表層演技」を求めないようにする』
あれから20年近くが過ぎた
いまだに、私の中で、この決意は揺るがない
『最低限、人に敬意をはらうこと』、それ以上は自分にも、他者にも求めない
患者やその家族は敏感である
強要された使命感や道徳感、感情労働
そういったものに、はたして心が深く動かされることがあるのだろうか
中島義道さんという方が書いた『「がんばり過ぎない」ための感情管理』は次のように締めくくられている
『最もいいナースとは、天性のもののようであるように思う。ドライに振る舞おうとしても、どうしても自責の念や使命感を持ってしまう人、どんなに表層演技を学んでも、深層演技とぶつかりあってしまうひと、そういう自分の不器用さが嫌でたまらないのだが、それよりもナースという仕事が好きでたまらない人、もしあなたがそういうナースであるなら、私のネゴトなどさっさと忘れて欲しい。あなたは、間違いなく「最もよい」ナースになれるのだから。否、「最もよい」ナースなのだから。』
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