top of page
執筆者の写真管理者

キューブラー=ロス 死の受容のプロセスについて考えること

救急外来にいるころ、たくさんの死をみつめてきた 病棟での患者さんの看取りとも異なる体験であった  

看護師になって3年目くらいの私はたくさんのことを考えたのだと思うが、

そのころに、やたらと恥ずかしい文章を書いている


詳細は『Slice of Beans いまの私が, いま思うこと 櫻本秀明 ナースビーンズスマートナース 8 (4) 374, 2006.』にあるが、よくこんな恥ずかしい文章を書いたものだと思う

今回は、その恥ずかしいことを蒸し返して、ここで書きたいわけではない。

そのころも今も疑問に思っていることがあり、それについて書きたいと思い筆をとった。 もちろん死に関することである

みなさん、キューブラーロスという方をしっているだろうか

アメリカの精神科医でエリザベス・キューブラー=ロスというのがフルネームのようである 詳しくはWik

その方は、死と死ぬことについて関する書籍である『死ぬ瞬間』(1969年)を執筆し、その著書のなかで「死の受容のプロセス」を紹介し、広くひろめた功績を持つ

死の受容のプロセスとは

  • 否認  :自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階

  • 怒り  :なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階

  • 取引  :なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階      何かにすがろうという心理状態にある

  • 抑うつ :なにもできなくなる段階

  • 受容  :最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階


看護で死について学ぶとき、このプロセスは必ず紹介されるし 実際、私の母親が読んだ『死ぬ瞬間』(1969年)は、いま私の手にある そして、このプロセスをみると、いつも私は怖くなる

なんだか、みんなこの過程をだとり 全てのひとが「死を受容」していくようではないか

もちろん、キューブラー=ロスさんも全てのひとがこの過程をたどるわけではないことを書いている でも、そう言われても「死の受容のプロセス」をこうして箇条書きでみると そう思わずにはいられないし そして、自分はきっと「死を受容」できないだろうと思う

最後まで受け入れずわめきちらし怖がったまま逝く姿があたまに浮かぶわけである すべての人がこの過程をたどらないにしろ 本当に、多くの人が「死を受容」できるのだろうか 私は、甚だ疑問である もちろん、どれくらいの人が「死を受容」してお亡くなりになったかを調査した研究なんてないだろうから、本当のことはわからない

わからないけど、少なくても私は「死を受容」できる気がしないので、 1/60億人以上の確率で人類は「死を受容」できないことはあきらかだ さて、あなたはどうだろうか 全てのひとは受容にいたると考えてケアすべきか はたまた、いろいろな人がいて、死を受容できない人もいるはずと思うか 死なんて多くの人が受容できないはずと考えるか そのポジションの違いは、死にゆくひとへ向けるまなざしの違いにいろ濃く出るのではないかと思う


閲覧数:32回0件のコメント

最新記事

すべて表示

医療(看護)は人を傷つける?

ナイチンゲールは『看護は新しく生まれた芸術であり科学である』と言ったとか、言わないとか。。。。 芸術=アートも、科学的にも共通点がある それは、自明性の膜を破ることである 自明性とは、当たり前にわかりきっていることを意味する 自明性の膜を破るとはどういうことだろうか?...

家族対応 こんな時どうする?来院時の対応 不幸な結果となった時の看護の家族対応の役割は?

一言で、これという役割はないと思います。むしろ、「不幸な結果」を受け取った家族の反応に合わせ、役割は玉虫色に変化すべきではないかと思います。 「不幸な結果」といってもそれを受け止めるのはご家族です。91歳のおばあさんが、不幸にもお亡くなりになったとして、ご家族が「天寿を全...

Comments


bottom of page