ナイチンゲールは『看護は新しく生まれた芸術であり科学である』と言ったとか、言わないとか。。。。 芸術=アートも、科学的にも共通点がある それは、自明性の膜を破ることである 自明性とは、当たり前にわかりきっていることを意味する
自明性の膜を破るとはどういうことだろうか?
ここで、評論家として有名な吉本隆明の言葉を借りよう
吉本隆明はアート、特に詩を『世界を凍らせる言葉である』と捉えていたようである
詩とはなにか。それは現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口にすることである。
—吉本隆明『詩とはなにか―世界を凍らせる言葉』
私たちが当たり前であると思っている世界 それは当たり前(自明性)の膜に覆われている
その膜に包まれている限り、ほんとうのことは見えてこない ほんとうのことは見えないからこそ、都合よくその当たり前を受け入れ 私たちは温ぬくと生きている
例えば、人はすべからく、皆死を迎える
明日が当たり前に来るような顔をして
今日を生き、そして眠りにつく
しかし、医療者は、病魔に侵された患者に対して 当たり前かのように、そこにある明日が
来ないかもしれないことを
伝えざるを得ない
近い将来、『明日がこない』ことを伝えることは
その人の世界を凍らせる言葉に他ならないだろう
例えば、糖尿病を患った人、特に食を生業に生きる人に 今の食生活、つまり生き方を変えなければならないと伝えることも
同じように世界を凍らせる言葉になり得るかもしれない
他にも、新たに障害をもった人に、もう足は動かないことを理解してもらうこと
新しい世界の生き方を見出してもらうことも
その人の今まで見ていた世界を凍らせることだろう
こうして私たちが提供する看護は、ときに世界を凍らせるほんとうのことを
ケアという行為(もしくは言葉で)で体現していることになる
ならば、せめて土足であがるようなやり方ではなく この両手で膜を、確かに破る実感を感じながら (傷つけることを自覚しながら)
看護を行いたいものである
加えて、いままで見ていた世界が凍りつこうとも
新たな世界の芽吹きは同時に訪れる
古き自明性を失った先にあるほんとうのことが
人々の新たな希望となると、信じ今日も看護が行われる
むしろ、看護は自明性の膜が破られた後にこそ真価を発揮するのではないか
明日がこないと知った人々と、にも関わらず共に生きること
自明性を失った新しい世界を生きるのは、ひどく孤独である
孤独は人に弱さを招く
手をたずさえ共に歩む人がいてくれたら・・・
看護という言葉に手という漢字が入っているのもそうしたことからだろうか
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